清水町こうじの歴史と特徴について
清水町が誇る名産品のひとつに「こうじ」があります。清水町では主に米を発酵させた『米糀(こめこうじ)』造りと深い関わりがあります。
その歴史は江戸時代中期、1739年(元文4年)徳川吉宗の時代、今から約285年前に清水町新宿にある「狩野屋(かのや)」(元しょうゆ屋 現在は公園になっている)と呼ばれる家に京都からやってきた旅の僧侶が、宿泊のお礼に麹製造の秘伝を伝授してくれたことからと伝えられています。
狩野屋の末裔で現在代表の石垣専弥さんから5代目の時に酒づくりをしていたが、2年連続で※腐造したために経営難になり、江戸末期から明治初期にしょうゆ屋に業種変更、米糀が絶えてしまうことを危惧し「こうじ」製造業が広がったとされている。
東海道向かい宿(新宿)は、麹づくりが盛んなところとして、最盛期には「室屋(ムロヤ)」と呼ばれる麹製造業者が7軒、麹販売を専門にした「ウリコ(売り子又は担ぎ屋)」が約80人ほどいたとのことです。(清水町史民俗調査報告書 清水町の民俗より)
西は富士・吉原~根方方面、東は田方から箱根を超えて熱海・小田原方面、南は沼津港から船に乗って戸田方面までを販売域にしていました。中には伊豆七島の大島まで行ったウリコもいたそうです。
1つの集落にこれだけの麹製造業者が集中している所は他には見られません。新宿周辺は耕地面積が狭い反面、周囲は田方平野などの穀倉地帯を持つ地理的条件から、麹屋が集中したと考えられています。
新宿では多くの人が麹づくりに携わっていましたが、戦争が激化した昭和16年頃になるとかなり人数が減り、戦後になると女性のウリコが現れ、昭和30年頃には横浜を中心とした京浜方面へ紙袋に麹を入れて運ぶ女性のウリコがたくさんいました。
次第に生活の変化により、かつてのように行事の折に甘酒づくりや家庭での味噌・醤油づくりが無くなるにつれて、時代と共に数は減り現在では家々を回るウリコの姿も見られなくなり、こうじ店も3軒を残すだけとなりました。
清水町のこうじの特徴は?
特徴として大手は機械で作っているがすべて手作りにこだわり希少性が高い。
他のこうじに比べ香りが良いと言われています。
清水町の水は軟水で酒造りには適さない。(酒造りには硬水が良い)井戸水は衛生上使えない為、水道水を使っているが清水町の水はおいしくこうじに適している。
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